パリ・サンジェルマン U-12コーチからの手紙 第1回「コーチに就くまで」

以前、本サイトでドイツコラムを執筆していただいている湯浅健二氏から、ある人物を紹介された。その人の名は樋渡群(ひわたし・ぐん)。今季からフランスの名門パリ・サンジェルマンのU-12コーチに正式に就任している。早速コンタクトを取ってみると、日本サッカーにおける指導の視点について、実に面白い話を聞かせてくれた。
「日本サッカーには、あまりにもサッカーを表現する言葉が少なくて、それを無理に創り出そうとして、英語オンリーに傾いてしまっているような気がするのです。『サッカー』をはじめ、コントロール、キック、シュート、パス……安易に英語だけで表現しようとすると、言葉から動作への幅がなくなってしまう危険があるのではないでしょうか」

さらに樋渡氏は、ひとつの例を挙げ、そして提案をくれた。
「フランスには『乾いたパス』という表現があります。これは“ボールが蹴られた瞬間の音が乾いていて、なおかつ地をはう速いパス”のことを意味します。このように、いろいろな国の言葉を集めて、そこから議論をはじめて、日本に取り込めるモノとそうでないモノを分別していく作業が必要かなと思っています。英語だけでなく、他文化の言葉も踏まえたうえで、サッカーにおける動作の意味を探り、消化していく作業を提案したい」

本連載では、パリ・サンジェルマンU-12コーチとしての現場の雰囲気はもちろん、“言葉”の作業を中心にしていただく。日本サッカーのレベルを上げることに貢献する手段のひとつとして、さまざまな文化の接種・消化作業をあらためて認識し、さらにそのうちのひとつの文化であるフランスを樋渡氏に伝えていただこう。
第1回はまず自己紹介として、コーチになるまでの経緯をいただいた。本連載は不定期になるが、ぜひお楽しみいただきたい。

■経緯

私がパリ・サンジェルマンで働くきっかけとなったのは、偶然である、と言いたいところだが戦略がずばりとあたった、と正直に告白しよう。コーチ業というものに興味をもって、2002年の5月、ワールドカップを日本で体験することなくフランスへ渡ったが、実はいわゆる人脈というものは無きに等しかった。都立大学サッカー部顧問の磯川教授のツテで茂木さん(日本サッカー協会日本代表チーム リエゾンオフィサー)とは何度かメールでやりとりさせて頂いたが、何せあの時期だ。見ず知らずの若造を相手にするほど暇ではない。

話は前後するが、完全に渡仏する前、「欧州サッカーコーチ育成システム調査」と自ら勝手に題して、1カ月の間、イタリア、スペイン、フランスのサッカー協会を訪ねた。フランスではエメ・ジャッケとプラティニと偶然話をする機会を持つことができ、具体的な内容、資料まで本人にいただいてしまった。「コーチの勉強をするならフランスに来い!」。この一言が渡仏を決心させたといっても言い過ぎではない。

とにかく、フランスに来てみたものの、すぐに勉強できる環境は整いそうになかった。そこで、選手としてどこかのクラブに入り込み、1人だけでよいからコーチを捕まえてそこから出発しよう、と考えた。シーズンも終盤に入っており、各地で次のシーズンへ向けた入団テストが行われていたので、近所の仲間(アラブ系フランス人とはなぜかすぐに友達になれた)といくつか受けにいった。久しく試合をしていなかったこともあり、体調は万全とはいえなかったが、興味を示してくれるチームもあった。しかし、結局は受けたクラブから再び電話がかかることなく悲嘆にくれる毎日を過ごした。

途中で気づいたのだが、何もレベルの高いクラブをわざわざ受けにいく必要はなかったのだ。とっかかりさえ作れればいいのだから。フランスという国は「クラブ」という概念が確立しており、日本の行政単位とは相容れないのだが、「市」に必ずひとつはクラブがあって、しかも総合スポーツ施設になっている。サッカーのグラウンドだけでなく、テニスコート、ラグビー場、体育館という具合に。管理費は市の税金から賄われている。学校には日本のようにクラブ活動はなく、体育でいろいろなスポーツをする程度である。

私は当時、パリから北西15キロにあるアシェール市に住んでおり、そこのクラブに登録した。アシェールクラブはイヴリン県2部に属しており、選手は私を除いて全員、会社員。仕事が終わって、「イッチョ、球でも蹴るか~」というレベルである。

なんとか、そこからスタートをして、フランスサッカー協会のコーチ研修も行かせてもらった。

■いざ、パリ・サンジェルマンへ

ある日、友人からパリ・サンジェルマンのグランドが7キロ南にある、ということを教えてもらいトレーニングがてら走って練習を見に行った。あの当時6部リーグに属していた3軍がトレーニングしていた。確か、ナイターで、フェンス越しに見ていると、自分でも通用しそうな気がしてきて、キャプテン翼のあるシーンを思い出していた。翼がいきなりグランドへ乱入してドリブルで日本代表を次から次へと抜いていく、あれである。さすがに、翼ほどうまくないので、フェンスの扉を開け、グランドに乗り込み、中央で選手にどなりちらしているコーチのところへ行った。

「あの、一緒に練習させていただけませんか?」

いぶかしげに、体を上から下まで一通り見られ、

「今日は無理だけど、来週の月曜日から来い」

拍子抜けとはこのことだ。すんなりチャンスが与えられ、かくしてその日を迎えるのである。

■練習生

欧州にいるほとんどの日本人には、共通に経験している呼び名がある――「ナカタ」。私は今でこそ本名の「グン」と呼ばれるようになったが、当初は「ナカタ」を連発されたものだった。呼んでいる本人たちの気持ちとしては、「日本はサッカーのレベルは高くないけれど、ナカタだけはお前たちも誇りに思えるだろう?」という、冷やかし半分、尊敬半分、というところであろう。この3軍のトレーニングがたまたま12歳以下カテゴリーのすぐ後に開始されており、そのトレーニング前に興味本位で子供たちのトレーニングを見学していた。コーチについて勉強しに来たからには、すべての年代のトレーニングを見てやろうという意気込みでノートを取っていた。「キャプテン翼の乱入」がこのころ突破口を開く私の行動のひとつにもなっていた。

恥ずかしげもなく、またずかずかとグラウンドに乗り込み、中央にいるコーチの横に行く。
「あの、ノートを取りたいのですが、グラウンドに入って、選手の近くで見学してもよいですか? 私はいま3軍の練習生ですが、コーチ業に興味があるんです」
「いいよ」
手続き終了である。それからは、日本人の気質をフル活用させてもらった。雨の日も風の日も、雪の日も雹(ひょう)の日も、霰(あられ)の日も霧の日もノートを取り続けた。努力と情熱を見せ続けることしか言葉を超えて人の心に響かない、というのはこの時に学んだ。

■雑用係を経て

ある日の子供の練習後、ノートを取り終えて、3軍の練習に向かおうとしているところに12歳以下カテゴリーを取り仕切るJコーチが私の側によってきた。

「来年は、何しているんだ?」

「え? 何って、レストランでバイトして、サッカーのトレーニングして、研修受けて……」

「来年、おれたちと一緒に仕事しないか?」

それは本当にシーズンも最後の時期に差し掛かった5月のある晴れた日だった。渡仏してからちょうど1年目が終わろうとしていた。シーズンが新たまってからは、さっそく会議などがあって、パリ・サンジェルマンに加わることが決定した。仕事といっても、コーチのサポート役である。人数が多すぎて見きれない場合の助っ人だったり、ボール拾いだったり、審判、ラインズマン、荷物運び、記録係、ユニホーム配り、遠征お手伝い、父兄との雑談、ロッカールームの鍵締め、ゴミ拾い……。コーチが選手とのコミュニケーションだけに専念できるように動き回った。それは本当によい経験だった。

今では、そのアシスタントが私についているが、その仕事をしたおかげで、よい分担作業ができている。そして今シーズン、パリ・サンジェルマンが正式に私を12歳以下のコーチとして認めてくれた。いよいよ戦略が波にのってきた。

<了>

■樋渡群/Gun HIWATASHI
1978年6月9日生まれ。広島県広島市中区千田町出身。フランス・パリ在住、フランスサッカー協会コーチライセンスU-12、U-18、シニア部門の3つを取得。現在は、パリ・サンジェルマンのU-12コーチとして活動するかたわら、コーチ国家試験に挑戦中

コメント

  1. 匿名 より:

    とても興味深い記事をありがとうございます。

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