「さて、今回は新刊の発売日となっている」
「Kindle版があるなんて知らなかったっぜ」
「アマゾンのリンクはこちら」
「題名は『森保JAPAN戦術レポート』である」
「なお、関東の明日の天気は極寒と雪雨のコンボになっている」
「晴耕雨読のお供に是非」
「晴耕雨読といえば、HUNTER×HUNTERを思い浮かべる人とは仲良くなれると思います」
「肝心の内容はどうなっている」
「森保ジャパンの最終予選からの試合を淡々と記載しています」
「ちなみにカタール戦と中国戦のファーストレグは書き下ろしになっている」
「その他の試合はフットボリスタのWEB版に書いたマッチレポをざっと時系列に並べたものになっている」
「もともと本にする予定なんでなかったので、それぞれの記事に作為的な繋がりは存在していない」
「作為的な繋がりとは」
「伏線をはって回収したり、以前からこうなるとわかっていたぜ編集が可能だったわけだけど」
「作為的な繋がりは、あれだな、悪い行為だな」
「そういう意味では悪さはできていない」
「で、多くの人に誤解を与えてしまった、本当の対談相手は【飯尾さん】である」
「森保さんと一言も書いていないのに、森保さんが対談相手と多くの人に誤解を与えたことを深くお詫び致します」
「飯尾さんといえば、みぎさんとのゴールデンコンビが話題を呼んだり、森保さんとのインタビューがバズったりと代表界隈では最も信頼できるお方と言っても過言ではないだろう」
「ちなみに、ゴールデンコンビに混ぜてもらい、日本対オーストラリアで一緒に仕事をしたことが昨年の個人的なハイライトとなっている」
「その記事のリンクはこちら」
「オーストラリアの試合をいちから振り返るなんて仕事でもないとやらないもんな」
「オーストラリアがもはや他人でない感じになったことを覚えている」
「ちなみに、チ・ドンウォンとク・ジャチョルの時代の韓国代表の試合も振り返ったことがあるので、あのころの韓国代表も他人感がない」
「恐らく【はじめに】がフットボリスタのほうで公開されると思うので、こちらではちょっと違うことを書こうと思っている」
「今回の記事の動機はみぎさんの記事にあります。アンサー記事を書いてくれてありがとうございました」
「アンサーに継ぐアンサーだな」
「ブログでアンサーとか何時代やねん!とつっこみたくなる気がするけどな」
「フットボール批評解散。F1ゼミ解散。数々のサッカーブログたちの解散。第三勢力の活動休止。 終わるはずのない夢が、次々とついえていく。 交わした約束は、露と消えていく。そんな時代の大きな変わり目にみぎがとても象徴的な1枚の記事を出した」
「そんなみぎさんのブログのリンクはこちら」
「で、この内容についてああだこうだ書きたいんだけど、ひとつに絞って今回は書きたいと思う」
「せっかくなので、ああだこうだについて少し」
「仕事で依頼されたときにいつも以上に気合が入りすぎて普段どおりにやれと叱られた話とか自分と全く一緒で笑いました」
この土俵で筆を走らせている限り、自分より「分かっている人」は必ずいて、「自分がそれをする意義」が見出せないんです。
「以前に、ネットによってこの世界はいきなり天下一武道会になってしまったと教えてくれた人がいて」
「天下一武道会か」
「つまり、他人との比較については、ああそうだよね、とうなずきながら読んでいた。自分よりうまく書ける人がいることは事実だからな」
「で、本題に入ろうと思う」
「本題とはなにか」
「【正しさ】やな」
「いくつか箇所を引用したい」
可能な限り「正しさ」を求め、常に正解不正解が問われるのなら、それはそれで少なからず息苦しさもある。
「というわけで、正しさについて考えていきたい」
「つまり、お前の考えるサッカーの正しさとは何なのか?って話か」
「結論を述べると、ピッチで起きたことが正しさである」
「ピッチで起きたことか」
「例えば、カバーリングしていると書く。でも実際にはカバーリングしていない。これは明らかな事実誤認である」
「それだけか」
「それだけだな」
「そのプレーがサッカー的に正しかったかどうか、ではなく、プレーで起きたことをそのまんま記述していればそれは正しいやろ」
「サッカー的に正しい、正しくないについては、様々な角度からの解釈が可能となる」
「カバーリングを例にとると、そもそもカバーリングをすることをチームから求められていない。ボール保持者は縦斬りがメインで縦のカバーリングは求められていない。自分のマークがえぐくてそれどころではない」
「そういった解釈を点で行うのか、ストーリーで行うのかは、その人の色が出るところだろうな」
「ちなみにその試合のなかでストーリーで追うことができていれば、個人的に問題はないと思う」
「もちろん、シーズンでストーリーで追うことができているほうが溶解度は上がると思うけど」
「予習や前節の内容が余計なものになることもこの世界ではよくある話である」
「以前に動画分析がめっちゃバズりやすい時代があったんだけど」
「今でもバズりやすいが、BANの対象だから大変だな」
「勉強になるものもあれば、お前何言ってんねんみたいなものもあって!」
「野暮だけど、1度だけ突っ込んだら偉い人に叱られたんだよな。野暮なことをするなって」
「解釈は好きにしたらいいねんけど、事実が違うのはちょっとあれだったらから突っ込んだんだけどな」
「観たもの」を「観たまま」に伝えることは難しい。何故なら、そこに沢山のバイアスがかかるからです。
「なので、正しさよりも事実って書いたほうがよかったかもしれんと、みぎさんに教えてもらった」
「事実ってか協会的に言えば、現象か」
「で、次にバイアスについて考えていきたい」
「自分は多くに人にバイアスがないと評価されることがある」
「バイアスが全くない!なんてことはないけど、薄いんだろうな」
「なお、飯尾さんにはその違和感みたいなものに気づいていたのでさすがだったな」
「この本を読んで、なんでなん?この評価ちょっとおかしくない?と気づいた人は流石です、自分の仕込んだバイアスがあります」
「で、バイアスがない理由は単純で、バイアスは邪魔やねん」
「なんで邪魔やねん」
「自分はいわゆるサッカーの文字起こしをなんのために行っているか?というと、指導者としての仕事に活かすためなのだ。普段も様々な現象を見て、その理由を考えて、速攻で解決しなければいけない環境に身をおいている」
「そのときにバイアスが!なんて言っていると駄目だな」
「バイアスのせいで現象への理解が狂い、目の前の選手への声掛け、修正が歪むとかありえんやろ」
「なので、このあたりは指導者的感覚が大いにあると思う」
「バイアスがあるとしたら、自覚と作為に紛れてるわけか」
「なので、誰が書いてもそんなに変わらないってことは海外のマッチレポ職人の内容とみんなのブログの中身に大差ないことから感じたわけで」
「しかし、ターニングポイントの解釈や抜き出しに個性が現れるところで」
「それが面白いんだけどな」
「流れをかえるためにどうしたか。キングダム的に言えば、どのように火を起こしたか、または鎮火したか」
ピッチ上の解釈は様々でしょう。ただ、解釈をするうえでは、まずもって起きている現象を「正しく」把握する必要がある。正しい認識のもとに、それぞれの解釈が生まれる。らいかーるとさんが伝えたい本質は、そういうことなのかもしれません。だから、これだけ長々書いているこのコラムも、決して正反対の話がしたいわけでなく、読んでいただいた通り、同じ話の延長線上にあります。つまり、解釈を磨くためには、結局のところ「正しい認識」を磨く道からは逃れられない。そのためには、やはりフットボールの勉強をしなければならない。
結論一緒じゃねえかと思ったそこの貴方、待ちなさい。
(どの立場から言ってるのか自分でも分かりませんが)私が伝えたかったのは、だからといって表現方法は一つではなく、縛られる必要はない、ということです。貴方の解釈も、そのアウトプットの方法も自由で、そこに「答え」はありません。目を向けるべきことは、小手先のテクニカルな部分ではなく、それをどう「自分の言葉にするか」。そう、言葉を模索しなければいけません。
「こことか感動するポイントだろうな」
「是非ともにみぎさんブログを訪問してみてね」
「ただし、ひとつだけツッコミどころがあって」
「また野暮なことをするのか」
「らいかーるとさんが伝えたい本質、とあるけれど、特に伝えたい事はない」
「ないのか」
「マッチレポを読んでああこういう見方もあるのねという視点を提供できたら最高だとは思っている」
「なるほど」
「でも、サッカーの本質を伝えてやるぜ!みたいな感覚はない」
「アナリシス・アイを書いているときも『これは誰に向けて書いているんだろう?』ってなったもんな」
「もっと言えば、なんでぼくが書いてるねん、筑波大学のアナリストとかに書かせせろや!と執筆中に思ったことも事実で」
「なので、アナリシス・アイもこんなサッカーの見方もできるよって感覚を一ミリでも広げることができれば幸いで」
「スポナビ時代はブログのアクセスランキングってものがあったので、アクセス数が気になることはあったけど」
「スポナビブログ以降はアクセス数なんてみたこともないからな」
「ニーズに答えるとか多くの人に見てもらいたい願望が欠落しすぎやろ」
「最初に好きでやっているから始まりがあるので、順序が逆なのだな。こういうこと書きたいから始まっているから」
「ニーズといえば、代表の記事はバズるんだけど、どちらかというと、書きたくない。無駄に注目されるから。なので、フットボリスタでクローズな環境で書いていることのほうがあっていると思うくらいだ」
「といわうけで、そろそろJリーグが開幕しますが」
「気持ちには引力がある、というように」
「好きだ!という気持ちにも引力があります」
「なので、好き!とうまく叫べるように心から願っています」
「それではまた」
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