第5回“Duel”=「決闘」をめぐる話 パリ・サンジェルマン U-12コーチからの手紙

■1対1はなぜ「決闘」なのか?

今回は“Duel”(「デュエル」と読む)という言葉を皆さんに紹介する。二者、つまり1対1の戦いの意味で、日本語に訳すと「決闘」である。フランスサッカー界では、1対1のシーンで、この決闘を意味する「デュエル」を用いる。かのアーセン・ベンゲルは、テレビで解説者としてコメントをする時などは「中盤で“Duel”に勝てないからチャンスが生まれないんだ」とよく口にする。

と、ここまで読んで「なーんだ、単なる1対1のことか。それなら、日本サッカー界でも『1対1』と表現しているじゃないか、今さら紹介してくれなくたっていいよー」と思われる方もいることだろう。しかし少しだけ、注意深く考えていただきたい。サッカーにおける「1対1」の場面で、「決闘」という、何だかいかにも侍が出てきそうな、重々しい顔つきで二人がにらみ合っているようなシーン――それこそ、巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘シーンを皆さんはイメージするだろうか。

ここで、決闘について少しだけ歴史を振り返ってみたい。
「たかだかサッカーのコーチのくせに、何で歴史の話をするんだい」という声も聞こえてきそうだが、それでもしばし、お付き合いいただきたいのである。現存するひとつの言葉をひも解くためには、その言葉が使われている状況を洞察してみて、それがどのように人々の頭の中に蓄積されていくようになったのか、過去にそのヒントを探すのが一番である。あ、それと急いで付け加えさせていただきたいのだが、私は“educateur”(「エデュカトゥール」と読む)といって、フランスでは「教育者」という肩書きなので、お間違えないよう。
それではまず、日本人のわれわれも理解できるように、中世の時代までさかのぼってみることにしよう。欧州では騎士が、日本では武士が登場する時代である。「決闘」をする時、彼らが心に抱いていたものは何だったのであろうか。フランス文学からそのヒントを探ってみる。

■フランス文学に見る決闘
まずは、12世紀ごろのクレチアン・ド・トロワが書いた作品で『ペルスヴァルまたは聖杯物語』から。
主人公ペルスヴァルが放浪しながら騎士道を学び、強敵をどんどん倒していく。ある日、とても貧しい領地にやってきた。お城にはほとんど食べ物も残っておらず、兵隊もわずかしかいない。敵に攻められている最中で、捕虜もたくさん取られていた。そこの領主は美しい女性で、名をブランシュフルールといい、お互い恋に落ちた。彼女は、ペルスヴァルに窮状を救ってくれるように頼む。その折、敵の大将クラマドゥーがペルスヴァルに果たし状を出してくる。領地の者はもちろんのこと、ブランシュフルールも悲しみにくれる。なぜなら、今までどんな騎士であろうと、クラマドゥーに勝てたためしがないからだ。しかし、ペルスヴァルは「皆さん、どんなにおっしゃっても、わたしは決してこのまま引き下がっていません。相手が世界中のどんな人間であろうとも」と決闘へ向かうのである。ペルスヴァルは勝利し、勇気と技量が称えられ、いよいよ国中の評判になっていく。ここでは、何よりも自らの強さを追い求める騎士精神が見て取れる。

次に、17世紀のコルネイユの作品『ル・シッド』から。
フランス文学をかじったものなら誰でも知っているであろう、「ル・シッド論争」を起こした、あの作品である。舞台はスペイン。カスティリア王フェルナンドの重臣ドン・ディエゴが、同じく王の重臣であるドン・ゴルメスに辱めを受けた。その恥辱を息子のドン・ロドリーグに晴らしてくれるよう頼むが、実はその相手の娘は、彼の最愛の女性シメーヌなのだ。つまり、自分の父親の恨みをはらすべき相手が、最愛の女性の父親なのである。ここで彼は、名誉を守り抜くことと恋を貫くこととのはざまで、心が揺らぐのである。しかし、彼は決闘に臨むにあたり、自分に結論を下す。
「この恥をそそがずに死んで行くのか! 死ねば私の名誉は汚され、取り返しがつかないのだ! 死んだ後までスペイン全国から、家門の名誉を守りきれなかったとそしらるのに耐えられるか! どうせ失うほかない恋なのに、それに執着するのは心の迷いだ!」
彼は父親の恨みを晴らし、名声を保ち、国王の信頼もより厚いものになっていく。そして最後は、最愛のシメーヌともめでたく結ばれるのである。

最後に19世紀、アレクサンドル・デュマの『三銃士』から。
舞台は17世紀フランス。田舎者ダルタニャンが仕官を求めてパリにやってくる。アトス、ポルトス、アラミスの三銃士と、それぞれ決闘をするはめになるのだが、どれも原因は礼儀作法に欠ける行動であったり、銃士としてのプライドを傷つける言葉使いだったりする。「自分の名誉を守る」という意味もあったようだが、決闘は小競り合いの発展型として頻繁に行われていたようだ。時の国王ルイ13世が禁止令を出していたが、裏ではライバルの枢機卿派の銃士隊をやっつける意味で決闘をけしかけていたこともあり、決闘を行う場所は人目のつかないところで、介添え人をつけることが常識だった。

では、この“Duel”という言葉が、サッカーに用いられる場合はどうであろうか。

■サッカーにおける“Duel”とは?

“Duel”とは、ゲームにおいて3割から4割を占めるサッカーアクションで、地上と空中という二つの異なるシチュエーションにおいて展開される。
“Duel”が起こるときはいつか。それは、プレーヤーがボールを支配するのに、相手に近づきすぎた時、プレーヤーが相手のプレースペースを無力化しようと試みている時、そしてフリースペースを作ろうと仕掛けているときである。“Duel”は、ドルブル(フランス語ではドリブルは「相手を抜き去る」という他動詞で用いられる場合が多い)によるコンセルバシオン(パスやセンタリングなどによって、フリースペースにいるパートナーを探すことを目的とする)のアクションのひとつである。また“Duel”は、レキュペラシオン(ボールを奪い返すという意味)の守備アクションのひとつでもある。

ここで具体的に“Duel”という言葉の用い方について、2005年2月23日(水)付けのフランススポーツ大衆紙『L’EQUIPE(レキップ)』から抜粋してみよう。前日に行われたチャンピオンズリーグ、PSVアイントホーフェン対モナコの試合(0-1でモナコが敗北)。その試合後、モナコ監督のデシャンが受けたインタビューである。

――今回の対戦について分析していただきたいのですが

「しっかり守備することをしていましたし、最善の機会を得るために無理はしませんでした。まあ、それにしても、おそらくもう少し彼らにプレスをかける方法があったように思います。だから、今夜はちょっと残念ですね」

――得点を取ろうという気持ちがなかったのではと思いますか?

「得点を取る気持ちですか? さあ。ただ、あまり厳しくない感じはしましたね。全体として、われわれはゲームをうまくコントロールできたと思います。攻撃の仕掛けが最後まで行けなかったことや、扉をこじ開けることができなかったことは残念です。一方で、ポジショニングバランスを一定に保つことが、かなり重要でした。おそらく、攻撃面でよい選択肢がなかったし、ほんのもう少しの突破や、残念ながら勝てませんでしたが、攻撃面での“Duel”が欠けていましたね。ひとつ“Duel”に勝ちさえすれば、試合の展開を変えるには十分でしたからね。またアイントホーフェンには、インターナショナル級のDFがいるし、スピードは並大抵ではないですしね。まったく手強い相手ですよ」

いかがだろうか。少しは“Duel”のイメージが浮かんできただろうか。
つまり、1対1にほかならない“Duel”であるが、日本とフランスでは、その言葉に馳せる(馳せていた)イメージが違うのである。負けたら「死」が待っている。騎士道の慈悲の精神によって、たとえ敗北者がその「死」を免れたとしても、その後には「不名誉」が待っている。騎士の間で、「あいつは誰々に負けた」などとうわさされようものなら、世間に顔を出すことはできないし、宮廷に召し抱えられるチャンスも減るだろう。
逆に勝つことで、勇者として認められるし、世間での評価も益々高くなり、出世のチャンスも巡ってくる。“Duel”では負けが許されない――そういう覚悟を強いられる言葉なのである。

サッカーは幸いにも、一度“Duel”に負けたからといって、終わりにはならない。ボールが存在する限り、90分間以内なら無限にチャンスがある。ボールを奪い返せば、また名誉を取り戻す機会が与えられるのだ。今の日本人には、すでに武士道は消えてしまっているので、あえて例えるなら「恥」の意識と換言できるかもしれない。“Duel”に負けることはカッコ悪いことなんだぞ、恥じなんだぞ、と。しかし勝てば、ヒーローになれるし、女にモテルぞ、と。“Duel”で簡単にシュートやセンタリングをされようものなら、それは自分の彼女が危険にさらされているのと同じことだぞ。自分の愛する者を守りたければ、“Duel”には勝たねばならぬぞ。

■欧州の個人主義と“Duel”

1対1の意識が日本人に足りないと言われて久しい。前日本代表監督トルシエも、ワールドカップでのロシア戦のロッカールームで、こう叫んでいた。
「中田と小野の個人の突破が必要だ。リスクを負え。試合はこう着状態だ。君たちの個の力をもう少し見せてくれ。それが、この状況を打開するかもしれない」
この時、彼らは次のように意識したに違いない。
「そうだ、今は0-0。フィリップの言うように、俺たちの1対1の突破次第で、状況が変わるのかもしれない。ここは、ヒーローになるチャンスだ。世界の評価も一段とあがるというもの。日本のサポーターの前で、いっちょ、やったるか!」
この気持ちが大切である。

中田英寿がペルージャに在籍していたころ、一人でボールを持ちすぎ、味方になかなかパスを出さない、ラパイッチという選手がいた。だが彼のすごいところは、一人で打開してしまいそうな雰囲気があり、実際何度もそれを実現したことだ――そう、中田は発言している。しかし、これは何もラパイッチに限ったことではない。欧州のFWは押しなべてこの傾向が強い。欧州特有の個人主義という性格も、もちろん根底にあるだろうが、一方で“Duel”の真の意味を深く理解しているに違いない。

繰り返すが、私がここで試みているのは「日本サッカー界のプレーに関する一挙手一投足に影響を与える言葉に伴う、イメージの質と量のあり方を、異文化も参考にして考察してみること」である。
ある言葉を聞いて、連想して、行動に移す(また、行動して試して、新たな連想をして言葉を作る)という過程、その情報の蓄積量、質において、サッカー先進国とサッカー後進国では、歴然とした差があるのだ。いくら見よう見まねでシステム(ここでは、サッカーにかかわるすべての環境を指す)をいじくってみたところで、肝心の「感情に影響を与える言葉の意味」が理解できていなかったら、長期的に期待する効果は出ないだろう、と予言しておく。

今、私が進めている作業は、日本サッカー界、ひいては世界のサッカー界の未来に非常に価値のあることだと自負している。だが、とても一人ではカバーできないし、それにフランス語だけを吟味しても面白くない。サッカー先進国では、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、オランダ語などを、そして後進国からはアラビア語、韓国語、中国語、タイ語などを検討してみたい。その中から、日本語に置き直せるものは、日本語として定着させ、原語でしかイメージしにくいものは、そのまま残す。あるいは、現代の状況に合わない言葉なら、採用しなければよい。そのように取捨選択され、イメージされ、言葉になり、ある「動き」として体が表現する。この作業を進めていけば、今まで見たこともない「動き」をする選手が現れるかもしれないし、今まで以上にすばやい「動き」をする者も出てくるかもしれない。読者の皆さんの協力が必要である。

コメント

  1. HRS より:

    いつも楽しく拝見させていただいております。この記事と直接関係なくすみません。CLにてシティがなぜ負けたか、どのように負けたかの分析もぜひ拝見したいです。宜しくおねがいいたします。

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